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  已經是十二月末的時候了,街上被厚厚的雪所覆蓋。

  在雪道上,喝醉了的寂寞的我在那兒搖晃著,“混蛋,混蛋”地喊著。

  “那樣的傢伙,辛苦地變得不幸就好了”嘴裡嘟囔著這樣的牢騷。

  但,這也正是我愛著她的證明。

  罵著,叫著,誹謗著,我傷心地留下了眼淚。

  這眼淚是為什麼呢?

  和她吵架輸了感到委屈悔恨也好,本想好好地分手但做不到的遺憾也好,到最後也沒能好好珍惜她也好,對自己失望了也好。

  似乎全是因為這些,又好像哪個也不是原因。

  總之我在那天晚上跑到街上喝了個爛醉。

  目を開けていられぬほど泥酔し、吐き、床に入り、やがて目が覚めると、窓際に晝近い陽がsheしていた。

  僕は慌てて、彼女のアパートに電話をしてみたが、彼女は朝早く故郷へ向けて発ったあとだった。

  すでに十二月の三十日で、目にしみる銀世界の中で、僕は彼女の名前を呼んだ。

  就像不想再睜開眼睛一樣,拼命地喝,拼命地吐,最後回到了床上,再次醒來時,陽光已經照到了床邊。

  我慌張地,試著給她的公寓打了電話;她早上已經出發回故鄉了。

  已經是十二月三十日了,在刺眼的銀色世界裡,我叫著她的名字。

  僕は美しい別れがないとは思わない。別れは美しく、甘美なものである。

  だが、それはある年月を経て、思い出したときの感傷で、別れそのものの実態とは少し違うような気がする。

  年月というものは、すべてのものを美しくする。それは魔術師のように巧妙で、鮮やかである。

  年老いた人はみな、自分の青春時代を、古きよき時代という。

  我並不認為這不是美里的離別。離別是美好而甜美的。

  但是,在經歷過些年月,回憶湧出時的傷感,都使得與離別本身的真實情況,多少有些不一樣的感覺。

  所謂歲月,就是能使一切變得美麗的東西。那是像魔術師一樣巧妙,而鮮活的存在。

  上了年紀的人大家都把自己的青春時態稱作美好的過去。

  八十年代の人は大正を、六十代の人は昭和初期を、そして四十台の人は、あの大戦と、それに続く暗い年代をさえ、よき時代という。

  それはみな過去というベールを透かしてみたときの感傷で、その時點からの見方ではない。

  それは過ぎた青春へのノスタルジイで、その意味で、一方的でナルシスティックなものである。

  だからこそ、ある人が、自分たちの青春が素晴らしかったことをいかに熱心に説明したところで、ほかの世代の人には、何の共感もよばない。

  冷ややかないい方をすれば、自己陶酔としかうつらない。

  戀の別れも、それに近い。

  80年代的人說的是大正時期,六十代的人說的是昭和初期,然後四十代的人,指的是那場大戰,如此這般的持續追憶著甚至更晦暗的年代,也被稱為美好的過去。

  那是大家透過面紗去看所謂的過去時所產生的傷感,從那一時刻起分歧消失了。

  那是對已過的青春如鄉愁般的思念,也就是,單方面的自我陶醉一類的東西。

  正因如此,某人在熱心說明自認為很棒的青春時代時,其它時代的人卻一點共同感都沒有。

  要是想做一個酷酷的好人,也只顯得是自我陶醉罷了。

  戀愛的離別,於此相近。

  いま僕は、k子との別れを、甘く美しいものとして回想できる。

  二人は愛し合っていたが、互いの立場を理解して別れたのだと思い込むことができる。

  それはまさしく、思い込むという言葉があたっている。年月の風化が、美しいものに過去をすり変えた。

  だが、別れの実態はそんな美しいものではなかった。互いに傷つけ合い、罵り合い、弱點をあばき合った。

  とことん、相手がぐうの音も出ないほど、いじめつけて、そして自分も傷ついた。

  愛した人との別れは、美しいどころか、悽慘でさえあった。

  しかし、それはいいかえると、そうしなければ別れられなかった、ということでもある。

  そこまで追いつめなければ別れられないほど、二人は愛し、憎みあっていた。

  現在我和K子分手了這件事,也可以作為美好而甜美的事來回憶了。

  可以確信的是兩個人相愛著,並互相理解著各自的立場,所以才選擇了離別。

  這簡直就像,堅信著什麼一樣的話語。經歷了歲月的洗禮,過去被美好的東西所替換了。

  但是,離別本身並不是那麼美麗的東西。互相傷害,互相謾罵,互相揭露著對方的弱點。

  最後欺負到對方無言以對,然而也傷害了自己。

  和相愛的人離別,與其說是美麗,不如說是悽慘。

  但是,換個角度考慮或許不錯,如果不是那樣就沒有辦法離別。

  兩個人是如此的愛著、憎恨著對方,以至於不到這樣逼迫的程度就無法分開。

  僕は今でも、「君を愛しているから別れる」という台詞を信じられない。

  そういう論理は、女性にはあるかもしれないが、男にはまずない。

  たとえば、戀人にある縁談があったとき、「君の幸せのために、僕は身を退く」ということを言う男がいる

  また、「僕は君には価しない駄目な男だ。君がほかにいい人がいるなら、その人のところに言っても仕方がない」という人もいる。

  こういう台詞を、僕は愛している男の言葉としては信じない。

  もし男が、相手の女性をとことん愛していれば、男はその女性に最後まで執著する。

  我至今,仍無法相信“因為愛著你,所以離開你”這類台詞。

  如此這般的理論,對於女性來說也許成立,對於男性來說則完全不是。

  比如說,戀人們談婚論嫁的時候,有男的會說“為了你的幸福,我決定退出”之類的話;或者,“我對於你是毫無價值的男人。你要是有其它更好的人在的話,去那個人的身邊也是沒有辦法的事”這麼說的人也有。

  這類台詞,我無法相信是正在愛著的男人說出來的。

  要是作為男方,徹底地愛著那個女的話,男性這方會對那位女性執著到最後。

  もちろん、人によって表現に多少の違いはあろうが、そんな簡単にあきらめたりはしない。

  その女性を離すまいとする、かなりの犠牲を払っても、その女性を引きとめようとする。

  戀とは、そんなんさっぽりと、ものわかりのいいものではない。

  いいどころか、むしろ獨善的である。

  相手も、まわりの人も、誰も傷つけない愛などというものはない。それは、傷つけていないと思うだけで、どこかの部分で、他人を傷つけている。

  愛というのは所詮、利己的なものである。

  だから傷つけていい、という理屈はもちろん成立たない。他人を傷つけるのは、できる限り少なくしなければならない。

  當然,人們的表現各有不同,但絕對不是這麼簡單就能放棄的。

  不想離開那個女性的話,即使要付出相當大的代價,也要想盡辦法挽留住她。

  所謂戀愛,並不是那麼乾脆,容易理解的東西。

  反而正好是有些自以為是的東西。

  對方也好,周遭的人也好,不傷害任何人的這類愛情是沒有的。

  反而是,想著不想傷害誰,卻不知道在某個地方,傷害了其他人。

  所謂愛,歸根到底,就是一種利己的東西。

  即使傷害也好,這樣的理由當然不能成立。傷害他人這種事,儘可能還是少做為好。

  「君の幸せのために、僕は身を退く」という言葉は、一見耳ざわりがいい。

  冷靜に、大きい視野から、物事を見ているように思う。

  しかし、愛に冷靜とか、大きな視野などというものが必要であろうか。少なくとも、燃え滾る愛の火中にある人が、そんなことを考える餘地があるだろうか。

  冷靜とか、客観的という言葉は、なぜか「愛」にそぐわない。借り物のような感じがする。

  “為了你的幸福,我決定退出”之類的話語,咋一聽去很刺耳。

  冷靜下來,放開眼界,去看去考慮更多的事物。

  但是,在相愛中冷靜下來,去開闊視野之類的有這樣做的必要嗎?

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